パソコンスキルが低かったころの僕の、「みっともない話」
パソコンスキルを高めることは、僕が知る中で、最高に手っ取り早くスキルアップできる方法のうちのひとつです。理由は簡単です。「パソコンを使える・使えない」というのは、ひと昔前でいえば「そろばんができる・できない」くらいの、あるいはそれ以上のインパクトがあるからです。
パソコンスキルを高めてしまえば、通常の(パソコンがあまり得意ではない)人の3倍-10倍の成果を同じ時間で手にすることができるようになります。
その結果、何が起こるか。
仕事が早く終わります。体力にも思考力にも余裕ができます。
それで余った時間で、いままで手をつけられなかった仕事にじっくり取り組むことができるようになるでしょう。
疲れを溜め込まないよう、残業時間を減らして早く帰宅することもできるでしょう。
余暇に存分に時間を費やすこともできるでしょう。
会いたい人とあって、ゆっくり時間を過ごすこともできるでしょう。
できた時間を使って、よりスキルアップできるよう、勉強に専念することもできるでしょう。
会社での評価があがれば、自信もよりつくでしょう。
より重要な仕事を任せてもらえるようになるでしょう。
報酬があがって可処分所得が増えれば、余暇の過ごし方でも、、人との時間の過ごし方でも、、勉強の進む方でも、より効果的な選択を安心してできるようになります。
僕自身が、パソコンスキルがまったくなかったころから、どうやってパソコンスキルを身につけ、なんとか道を切り開いていったのか。
ここでは、そんなことについて簡単に書きたいと思います。
「パソコンスキル」としっかり向き合わざるを得なくなるまでの僕のこと
まず、簡単に僕の職務経歴についてお話していきたいと思います。僕は実は、今でこそ言えますが、20代のころは、まったくもっていい加減な人間でした。
帰国してからの生活の当てもないまま、バックパックを背負って半年以上の長期旅行に何度も行っていました。
世の中はバブル崩壊後の大不況期でしたが、就職活動もせず、アルバイトをして適当に暮らす毎日。
そして気がつくと、20代も後半。
マトモな会社はどこも相手にしてくれない状態になっていました。
新卒扱いでどこかの会社に入社したくても、「年をくっているから無理」と門前払い。
中途社員としてどこかの会社に入社したくても、「職歴がないから無理」と門前払い。
でも、そもそも「職歴」は、仕事をしないと手に入りません。
そして、その「職歴」をつけようとしても、「職歴がないから無理」と、どの会社からも門前払いされる。
今思えばほかの方法もあったかもしれませんが、20代のころには大して智恵もなく。
そんな日々にかなり傷めつけられ、次第に僕は人としての自信を失っていきました。
そして、しばらくして、僕は、「もう、ホワイトカラーの仕事は無理」とあきらめ、ブルーカラーの仕事をすることにしました。
自分なりにはいろいろ考え、結局、漁船に乗ることにしました。
しかし、諸事情あり、その漁船からも半年で降りることに。
そしてさらに気がつくと、僕はもう、28才になっていました。
大学時代には同じようなところにいたはずの大学の同期たちは、次々に出世していき、海外で活躍したり、大きなお金を動かす仕事をしたりしていました。
そして、僕には、いまだに経歴らしい経歴もありません。
周囲に取り残されたように感じ、僕はようやく焦り出しました。
でも、そんな焦りを友人に見せることはできませんでした。
そんなころ。
僕は、ある会社に採用され、港の現場で働くようになります。
漁船での「職歴」を評価してもらえたのでしょうか?いまとなっては分かりません。
その会社は割りと大きな会社でした。
僕が配属された職場は大黒ふ頭という港の現場でした。
担当する職場は貨物船の現場仕事。
朝と夜とやってくる外国船の貨物の積み下ろしの現場監督をしていました。
黒煙をあげるフォークリフトの間を縫って走り回り、入れ墨者もいるような港湾作業員、現場の先輩、課長、船会社代理店の担当者、外国船に乗っているインド人、ギリシャ人、クロアチア人、ロシア人、フィリピン人の船乗りだけが仕事上のおつきあいという非常に狭い世界でした。
一日の仕事が終わると、顔が排気ガスでベットリと黒くすすけてしまうような現場です。
はっきり言って体力仕事で、仕事の内容も、超アナログでした。
女っ気なんてありません。
汚い空気の中で仕事をすると、鼻毛がどんどん伸びました。
あまりに空気が汚いので、身体が適応していたのでしょう。
鼻毛も、当時は、あとで思い出して自分でびっくりするくらいに、黒くて太くて頑丈な鼻毛でした。
僕も、僕の先輩も、僕の先輩の先輩も、みな、鼻から鼻毛を伸ばしていました。
でも、当時の僕はあまり気にすることはありませんでした。
なぜなら、僕のいる環境では、それが普通のことだったからです。
とはいえ、仕事は、楽しんでやっていました。
「ようやく自分の当分落ち着ける居場所を見つけられた」
そんな気が、ようやくしました。
しかし、「ネフローゼ症候群」という病気に罹ってしまい、半年の入院を含む長期の休職をすることになってしまいました。
休職中は病院で安静にしていたため、漁船で作った身体はボロボロ。
それまでトレーニングを積んで作り上げていた72.0kgある体が、56.5kgまで落ちるほどでした。
職場に復帰したころには、体力自慢だった自分は跡形もなく、はっきり言って、ヨレヨレの状態でした。
当然、体力的に現場は無理だということで、営業企画部門に異動になりました。
僕がもうすぐ30才になろうかというころのことです。
その新しい部署での仕事は、役員会議にかけられるような新事業のための営業損益シミュレーション資料の作成、各部門の業績管理などでした。
僕は、恐ろしい量の数字仕事を抱えることになってしまいました。
病み上がりで体力が追いつかない中、会社経営に直結する仕事を厳しい期限の中でこなしていくのは、かなりキツいことでした。
なんとか仕事を仕上げようといろいろ試行錯誤しているうちに、身についていったのが、パソコンスキルだったのです。
具体的には、パソコンのショートカットキーのスキル、エクセルのスキル、エクセルマクロのスキルがとても役に立ちました。
ショートカットキーは、覚えるととても便利です。
マウスを動かすときのように目を使わないで済みます。目が疲れません。
マウスを動かさないので、手の動きもほとんどありません。
仕事は早く終わるし、疲れません。
頭も疲れないので、難しい仕事もじっくり考えてこなすことができます。
そして、エクセル。
エクセルの、シンプルな構成と、その表現力が僕は気に入りました。
四角い表にシンプルなデータベースを作ると、エクセル関数やオートフィルター、並べ替えといった機能を使って、作りたい資料がおもしろいように簡単にできるのです。
僕は、エクセル仕事を追求することで、仕事をシンプルに効率よく片付けるための頭のトレーニングをさせてもらったように思います。
でも、だんだんと、それだけでは解決できない課題に行き当たってしまいました。
平日に残業して、週末に会社に来ても手作業では終わらないような仕事。。。
病み上がりで体力も気力も回復していない時期にそんな仕事に対応するのは、とてもキツいことでした。
「なんとかしなくては…」
そう思って探しているうちに、見つけたのが、エクセルの「マクロ」という機能だったのです。
最初に書いたマクロがものすごい効果をもたらした
そのとき僕が抱えていた仕事は、ある数十億円規模の巨大物流施設建築にあたり、扱う貨物の割合、各作業工程の価格設定、付随施設の敷設価格等、様々な条件を変更しながら、20年ほどの期間について60パターンほどの損益シミュレーションをしなければならないというものでした。60個ものエクセルシートを作り、それぞれに手作業でちょっとずつ違う値を入れ、それぞれにグラフを作成していき、印刷してチェックをし、有望なシナリオだけをを抽出して資料としてまとめなおし、当時の僕の上司と役員に見せていました。
言うまでもなく、大変な作業です。
金額も金額なので、仕事をする上でのプレッシャーも非常に大きかったです。
他の仕事の割り込みもある中、依頼を受けると、数日がかりの作業でした。
ちょうどこのとき、エクセルマクロに出会ったのです。
「エクセルの作業を自動化する方法がある」
そういう話を聞いたとき、 「これはいけるかもしれない」 直感的にそう思うモノがありました。
さっそく、僕は、インターネットで断片的な情報をかき集め、試行錯誤をしながらマクロを書いてみました。
僕は東京大学出身とはいっても、農学部水産学科出身で、ITのことなど何も分かりません。
しかし、エクセルマクロについては右も左も分からない中で勉強しながら自動化に取り組むのは、並大抵のことではありませんでした。
「サブプロシージャ」て何?
何でこれがこうなるとExcelに怒られるの?
もうちょっとここをこうしたいんだけど、どこをどう変更したらいいの?
自動記録でマクロを作ってみたんだけど、これどうすればいいの?
あちこちから情報を集め、マクロを作ってみては壁にぶつかり、書籍を集めまくり、詳しい方に質問をし(社内にはそんな人はいませんでした)ということをくり返し、本当に苦労しました。
とはいえ、とにかく最終的には、シミュレーション用の複数のシートを作っていき、それぞれに対応したグラフを作り、条件に当てはまる有望なシナリオを見つけてリストアップするという仕事を自動化できる仕組みを作ることに成功しました。
マクロ自体の内容は今思うとそのときのものは本当にヒドい出来でしたが、とにかく目標を達成し、それまで3日がかりでやっていた仕事は、新しいシナリオ用に条件設定だけ変更すれば1分もかからずにできるものになってしまったのです。
そのときの感動はかなりのものでした。
ようやく社内での評価を得られ、自分への無力感が解消される
前述のとおり、僕は、当時、病み上がりで大変な状態でした。正直に申し上げると、僕には、その当時、「自分には誰の役に立つこともできない」というものすごい無力感がありました。
「ネフローゼ症候群」というのは、再発性の高い、東京都から難病指定されている病気です。 副作用の強いステロイドを毎日何十mgも投薬することでようやく日常生活を保っていましたが、 退院時には、僕は、医者に「君はいずれ、病気のせいで体をこわすか、薬の副作用のせいで体をこわすかのどちらかだ」と言われていました。
現場仕事では役に立てないということで事務方として内勤にはしてもらいましたが、 実際、僕自身も、退院当初は再発をくり返し、復帰から1年の間に3回も4回も体調をおかしくして勤務に穴をあけてしまうという状態でした。年20日あった有給休暇も、半年ちょっとで消化しきってしまったほどです。
健康に響くからといことで、僕だけ出勤は1時間遅れ。毎日定時には帰らされる。外でお客様と会うような用件には連れて行ってもらえませんでした。
そんな状態で他の人と同じように仕事をしていても、人並みな仕事もできません。
病気になる前は、気力、体力ともに自信があり、サッカー協会公認審判員として国際審判員のライセンスを目指し、ストイックに厳しいトレーニングを続けていた自分が、こんな境遇に落ちてしまった。
そのことがものすごく悔しかったのと同時に、僕は、正直、自分に対する期待を失っていました。
社内でも、「病気したおかげで人生終わってしまった人」といった感じに思われていることを感じていました。
それが、この一件の出来事、マクロを使うことで3日かかっていたシミュレーションを一瞬で終わらせられるようになったというだけで、僕はたちまち、当時の部長や課長から、エクセル仕事が得意なスタッフとみなされるようになったのです。
このことが僕の自信になりました。
それは、本当に、僕がはじめてその会社で「僕にしかできない仕事」を得たときだったのかもしれません。
さらに勉強を続け、仕事でもプライベートでも、ありとあらゆるシーンでマクロを使うように
その後も僕はExcelマクロの勉強を続け、社内でのいろいろな仕事にマクロを利用していきました。毎月各事業所から送られてくる業務報告、四半期ごとに作成される決算資料といった定期的に同じ処理をくり返す仕事、突発的に依頼される分析作業、一度作成した資料の組み替え等、覚えれば覚えるほど、Excelマクロを利用できるシーンは増え、応用例も蓄積されていきました。
ようやく仕事が面白く感じられるようになってきたのもこのころです。
また、プライベートでも、Excelマクロを利用できるシーンがあることに気づき、自分のニーズに合うツールを作ったりもしました。
例えば、入院時から勉強していた英語学習は、格好のツール化の格好のターゲットでした。
例えば、単語や熟語、to不定詞と動名詞の使い分け、適切な前置詞の選択などを覚えるときにやっていることは、単語カードを作って、よく間違える問題だけより抜いて正解できるまで練習してといったことをする単純作業です。
僕は、このプロセスを自動化して、Excelに問題と答えのリストを作成して、次々に出題していって成績履歴を管理するツールを作り、それを使って英検1級に合格しました。
その他にも、スケジュール管理を行うツールを作ってみたり、家計簿ツールを自作してみたりと、多くのことをしながら、僕は力をつけていきました。
(ちなみに、この学習ソフトは一時期「暗記エクセレント」というベタな名前のシェアウェアとして販売していましたが、「かゆいところに手が届く」と評判が高く、試用版ダウンロード数あたり4%近い購入割合を誇っていました。学習者としての自分のニーズを死ぬほど理解している人が自分でプログラムを書くと、これだけインパクトのあるものを作れるということです)
もっとも、実際には、やっていた勉強はそれなりに壮絶です。
勉強をはじめてからは、ノートパソコンと重たいリファレンス本を持ち歩き、会社との往復の電車の中ではリファレンス本を読み、電車を降りると、すぐに喫茶店やファミリーレストランに立ち寄り、ノートパソコンのバッテリーが切れるまでマクロを書いていました。
ノートパソコンのバッテリーが切れると家までの上り坂を25分くらいかけて歩いて帰り、家に帰ると、ノートパソコンのバッテリーを充電しながらプログラムの続きを書きました。
それでも行き詰まるとインターネット上の質問サイトで教えを請い、もらった回答の内容がまったく理解できず、また調べ物をしとしているうちに疲れて寝てしまう日々でした。
翌朝起き出すと、電車の中で「どうしたらもっとキレイにマクロを書けるだろう」と考え、電車を降りると喫茶店で朝食を食べながらノートパソコンでマクロを書き、出勤時間が近づくとあわてて会社に向かう、という感じでした。
パソコンのキーボードがテカテカになるまで使い切り、修理に出し、何台もつぶし、少しでも有用と思える情報が載っている書籍はすべて購入し、夢中になって勉強を続けました。
ようやくある程度全容を把握できるようになった感じがしてきたのは、かなりの時間的、費用的な投資をしてからでした。
Excelマクロの全容が見えて、はじめて分かったこと
そして、分かったことが3つありました。ひとつは、分かってみればみるほどエクセルマクロは強力だということでした。
何度も書いていますが、実際、エクセルマクロでは、かなりのことが実現できます。
エクセルの中で行うセルの値の処理とかシートの追加や名前の変更、図や表の自動作成といったことは当然そうですが、ファイルやフォルダの操作はもとより、仕事で使う普通のパソコンユーザーが想定するようなことなら、まず可能でしょう。
それから、Excelマクロを覚えることはIT技術の基本について学ぶということそのものだということでした。
いったんマクロについての程度がある知識にまで到達すると、そのほかのプログラミング言語についても、仕組みを理解し、それなりに使えるようになるまでそれほど時間はかかりません。
例えば、後に僕は、当初作った学習ソフトは、より高度な機能を搭載できるよう、.Netという高級プログラミング言語で書き直しました。
この言語を覚えたのはそのときがはじめてでしたが、「ああ、ここは、Excelマクロのこの部分と同じだ」と気づくところばかりで、もちろんそれなりには努力しましたが、かなりすんなりと覚えることができました。
また、ホームページ作成に使うPerlやJavaScriptといった言語を使いこなせるようになったのも、このころです。
パソコンの中で、ウィンドウはどういう風にうごいているのか、ファイル、フォルダを作成するとはどういうことなのか、そういったことについてはっきり理解できたのもこのころです。
そしてもう一つ分かったこと。
それは、「マクロの学習ではつまづきやすいステップは決まっている」そして、「そのステップを上手に乗り越えることができれば、マクロの理解はすんなりできるはずだ」という確信でした。
「あのときこういう勉強をしておけばよかったのか」「あのときこういう風に説明を受けていれば、このことは簡単に理解できたのに」と思うようなこともかなりたくさんありました。
「Excelマクロはとても便利だし、決して難しくはない。そして、マクロを習得するステップでは、ITについての多くの知識も得られる。このすばらしさを、もっと多くの人に伝えられないものか。」
いつしか、そんなことを考えるようになりました。
いつの間にか、IT技術者に。講師としてのキャリアを得る
そのうち、ご縁があって、日本IBMの経理子会社で仕事をするようになりました。ここでは、僕がいたのは、経理・財務・計画部門向けのITサービス全般をする部署でした。
僕は、子会社を含めたほとんどのグループ会社で使われる経理承認システムや、基幹システムに取り込ませるための補助アプリケーションから業務用PCを新調する際に利用するデータ、設定移行ツールまで、ほとんど基幹システムと言ってもよいほどの重要なシステムから簡単なツールまで、様々なシステムの開発に従事しました。
仕様の決定から操作画面のデザイン、コーディングまで、任された仕事は基本的にすべてひとりでやっていました。
それまでに蓄積されていたマクロや他のプログラミング言語でのノウハウがあったので、僕には、ストレスなくこれらの仕事を行うことができました。
また、奇しくも、その部署は、経理・財務・価格計画といった部門向けのシステム開発やサポートを行い、同時に、管理部門全体に対してITセミナーを実施する部署でもありました。
僕は、他のスタッフと協力しながら、定期的に、ExcelやAccess、そのほかのソフトの使い方について、マネージャクラスから派遣スタッフまで、少なめに数えても数百人という人たちに対してセミナーを実施してきました。
かなり優秀な方も多く、僕はここでの仕事で様々なことを吸収していきました。
このころには、開発者としても、指導者としても、十分やっていけるだけの力がついていたので、非常に気持ちよく仕事をすることができました。
IT技術のノウハウ、講師としてのノウハウの多くを蓄積したのが、この時期です。
この当時、長年温めていた企画をラインマネージャに話し、エクセルマクロのセミナーをすべて書き下ろして実施しました。
この講座は受講生には大変な反響で、僕が教えたときの満足度調査の結果は、7点満点で「6.67」でした。
普通あり得ない高い数字です。もちろん、僕自身はこれ以上高い評価だった講座は記憶にありません。
今日実施している講座は、当時の経験を元にイチから作ったものです。
ベンチャー企業に引き抜かれ年収は一気に倍以上に
僕は、その後さらに、あるインターネット技術のベンチャー企業のオーナーに出会い、業務遂行能力を見込まれ、それまでの年収の二倍を軽く越える年俸で引き抜かれました。その会社は、資本金が10億円ほどあり、過去に他社にライセンスした特許からのキャッシュフローを使ってインターネット上で行うサービスについて先進的な研究を行う、従業員数が10人にも満たないというちょっと特殊な会社でした。
僕は、その会社では、主に知的財産担当として仕事をしていました。
具体的には、まず、その会社には、日米欧中他世界中、十五以上の国と地域に合計100件近い特許、商標等の出願をしていましたので、それらの管理をしていました。
外国出願案件にかかる現地特許庁からの拒絶理由通知への対応、新規の特許出願はもとより、翻訳の外注、納品物のレビュー、特許事務所とのミーティング、特許事務所の開拓、翻訳エージェントの開拓、翻訳物のレビュー、知的財産にかかる業務フローの再構築等々を行っていました。
知的財産の仕事は、法的な期限が厳しく、特に海外案件では現地当局からの突然の通知への対応に追われることも多く、取り扱い件数が多いと、一度に10件以上の期限を抱えながら仕事をすることもでてくる仕事です。
また、特に特許などは、出願書類に技術内容が正確に表現されていて、取得したい権利内容が不足無く表現されていることを一字一句吟味しながら確認する作業は非常に負荷が高いものになります。他社の出願内容と比較検討するともなると、人の書いた技術文書ですからなおさら大変です。
僕は、こういうものと毎日毎日文字通り格闘していました。
それだけでも普通の一人分くらい仕事量として見てもかなり忙しいほうの部類に入っていたものと思います。
複数の仕事を抱えるも、マクロを活用しきって、「何でもこい」という状態に
なのですが、少人数のベンチャー企業という性格上、やれることはありとあらゆることを出来る人がこなしていかないと会社は成り立ちません。僕は、この仕事に加えて、取引先との交渉のためのその企業で作っていたネット技術の説明資料の作成、自社技術をベースにしたアプリケーションの開発、取引先へのデモ等を行い、法務担当者として日本語、英語でのNDA(Non Disclosure Agreement = 秘密保持契約)締結にかかる仕事、取引先すべてとの契約にかかる交渉、契約書レビューも担当しつつ、プロジェクトメンバーの業務進捗管理を行い、テストの管理、派遣スタッフの管理もし(グチも聞き (^^; )、ついでに子会社の代表取締役もしていました。
さすがにここまでくると目も回るほどの忙しさだったのですが、圧巻だったのは、これだけ忙しかったのに、仕事をなんとかこなすというレベルで終わるどころか、この会社を辞める直前の数ヶ月で、あとで数えてみたら、わずか5ヶ月ほどの期間に、特許出願だけでも、国内海外あわせて20件以上を行うくらいの成果を出していたことです。
もちろん、どの出願にも深く関与していまして、戦略的な都合で僕が発明者に名を連ねていないものも少しはありましたが、ほとんどに発明者として僕の名前も入っています。
改めて数えてみて、これには僕も「よくこんなにやったなぁ」と、大笑いしてしまいました。
このときは、どうマクロを活用していたのかというと、
まず、知的財産にかかる資料がぐちゃぐちゃな状態だったので、エクセルで表を作り、少しずつその内容をブラッシュアップしながら対応していきました。
プロジェクトメンバーの進捗表もマクロで管理。
作業リストのメンテナンスやテスト項目表の作成、進捗のチェックもマクロで実行。
派遣スタッフの管理も、基礎になる表を作り、費用の分析を頼まれたときにはマクロで処理。
自社技術説明資料用の仮想FAQを作成する際には、エクセルに質問と回答を並べておき、簡単に順番の入れ替え、カテゴリ変更をできるようにしてHTMLファイルとして一括出力。
子会社の顧客リストはマクロで管理子会社の顧客リストはマクロで管理
そのほか、自分の仕事のベンチマークのために、ときどき、行動ログを自分で取れる簡単なマクロを作り、必要に応じて使用。
と、こんな感じです。
当然ながら、マクロを使っていなければ、これだけの仕事量はこなせなかったでしょう。
ここまでを読まれた方はお気づきになるかと思いますが、要は、Excelの表になるような仕事であれば、マクロはどんな業務にも使えるし、ほとんどの業務で利用価値があるということです。
ちなみに、この会社は、もともと取引のあったある大手総合電機企業に惚れ込まれ、完全買収されてしまいました。ちょうど、僕が毎週のように特許を出願していたころのことです。
僕がこの会社在籍していたのは、結局2年ほどでした。
この文章を読んでいるあなたといっしょに、僕が実現したいこと
まじめに人生について考えないで生きてきたツケがまわり、僕は、20代の中頃から、これといったビジネススキルがないということで社会からまともに相手をしてもらえない時期を経験し、非常にくやしい思いをしてきました。そのうえ、30代の入りには大病まで抱えてしまい、それまで以上に厳しい状況に立たされてしまいました。
この時期に僕を支えてきたのは、それでも自分をあきらめきれなかったほんの少しの期待と、もし人並み以上の仕事をできるときが来たら、同じように苦しんでいる人を助けたいという気持ち、それだけでした。
そして、一人で試行錯誤しながらもなんとか人並みを越えたところまで到達したときには、それまでの自分の迷走ぶりにはあまりにも無駄、社会にかけた迷惑が多く、唖然としてしまいました。
「必要なときに、必要な指導者に恵まれていればどんなに良かっただろう」
僕は、強くそう思いました。
僕が指導者の道を選んだことと、この時期の悩みや苦しみは決して無関係ではありません。
僕には理想とする社会があります。
それは、年齢、性別、人種、出自、それまでのキャリアに関わりなく、どんな人でも、本人に社会貢献したいという意志さえあれば、手をさしのべる人から必要な援助が得られ、必要な学習を効率的に修了し、目指す方法での社会貢献を実現できる人になれる社会です。
それは、僕自身が苦しんでいた時期、もし社会がそういうものであったならば、どんなにか良いだろうかと切に願っていたものです。
みなさんには、本当は、爆発的に社会貢献できるだけのものすごい能力が秘められています。
そして、僕は、努力する気のある人のことは、トコトン助けたいといつも思っています。
ともすると、今の僕にとっての人生の喜びの根源は、自分の能力を信じ、全力を尽くして努力している人との出会いだけかもしれません。
僕はあなたに約束します。
もしあなたが自分の能力を信じ、それを伸ばしたいと真剣に考えているのであれば、僕はあなたの能力を伸ばすためのあらゆるノウハウを惜しみなく提供します。
いつ実現できるかは分かりませんが、そうすることが、僕の思う理想の社会に近づく道だと考えているからです。
2024年11月20日 21:41
小川 慶一さん
2024年11月20日 21:28
AIユーザさん
2024年11月14日 17:04
小川 慶一さん
2024年11月13日 18:12
AIユーザさん
2024年11月13日 18:11
田中 宏明さん