「アイデンティティ」と「概念」と、「概念の手前」
前回『「アイデンティティ」の拠り所-概念との距離を再調整してみる』ということで、ITの世界は離れて、リアルの世界での「アイデンティ」についてより深く考察してみました。
リアルの世界での「アイデンティ」には、以下の2つのニュアンスがあります。
・私はほかの誰でもなく私である
・私は○○という集団の一員である
前者のような「私はほかの誰でもなく私である」という認識は間違いなくアイデンティに関わるものですが、同時に、後者のような帰属意識のこともアイデンティティと言います。
「日本人としてのアイデンティティ」と言ったりしますね。
そして、人は、どこかの集団に帰属して、そこではじめて「私はほかの誰でもなく私である」という形でのアイデンティティを有することができるとも言えます。
そのような「自分を自分たらしめている集団」との距離感を自由に調節できるようになるためのワークを以下で紹介しました。
記号の力:私たちが無意識に受け入れる「アイデンティティの象徴」
https://forum.pc5bai.com/tips/longshot/cf9e2ef4-3ee7-4203-a914-64b2281a91a9/
そして、前回、このワークへのフィードバックをひとつご紹介しました。
とても興味深いフィードバックです。
>早田 さん からのフィードバック:
>非常に哲学的なワークですね
>確かに世の中のすべての物事は名前が付けられると同時に分離(概念化)が始まります
>ということは分離する前(概念化される前)の世界があるわけですが、私たちはどうやってもこの分離する前の世界を「頭で」理解することはできません
>理解できたとするとそれは概念化された後であり本当の姿ではなくなっています
>なので私たちが真実を見るには言葉を覚える前の赤ちゃんのように思考を抜きにして見るしかないのですが、頭でやろうとしても失敗するので直接の経験に注意を向けるとその状態に近づくのかなと思ってます
>
>そもそも概念(思考とも言いますね)って何なんでしょう?
>仮に「パン」という思考でお腹を満たせるかと言われたら満たすことはできない
>思考の性質(色、形、臭い、味、触感)を考えてみても何もない、何もないのにあるように見える
>あるように見えるけどどこに位置しているのか答えることができないし、どこから現れてどこに消えていくのか答えることができない
>そしてその思考が本当に”自分の”思考なのか証明もできない、仮に自分がその思考を選んだとしていつ選んだかも答えることができない
>私たちは思考はあるという強力な前提条件に縛られていますが、もしかしたら思考なんてないのかもしれない
>一度も見たことも聞いたことも触ったこともないのになぜ思考はあるという前提になっているのでしょう?
>そう考えると思考をコントロールしようとしたり執着することがいかに私たちを消耗させるかわかる気がします
>そうなるとこれって「自分」という思考にも当てはまりますね・・・
>果たして「自分」って本当に存在するのだろうか・・・
>考えてもネズミの周り車と同じで答えはでませんが 笑
>
>概念に先立つ世界、そこに本当の自由がありそうな気がしています
以下のリンク先から、このフィードバックに対しての僕からは回答を読むことができます。
https://forum.pc5bai.com/tips/longshot/cf9e2ef4-3ee7-4203-a914-64b2281a91a9/#cid56
ですが、今回は、改めて、今感じることを書いてみます。
「全体は部分の総和ではない」という言葉があります。
起きた出来事、モノといったものには、名前を付けることができます。
名前をつけることで概念として扱えるようになります。一方、名前自体は、起きた出来事そのものではありません。
「ノートパソコン」という言葉は概念ですが、実際のノートパソコンそのものではありません。
「『ノートパソコン』を『開いた』」という具合に概念を組み合わせるとより真実に近くなるような感じはありますが、これもまた本当に起きた出来事そのものではありません。
この方も言われているとおり、世の中のすべての物事は、名前が付けられると同時に、概念化が始まります。
「アイデンティティ」というのも、所詮は概念です。
「こういうのが私なんだ」、「こういうやり方こそ、私らしいんだ」と頭で考えて行ってしまう行動というのはどうしてもあります。
こういう動機は、意識化されたものであるにせよ、無意識なものであるにせよ、概念化された「アイデンティティ」に紐づいています。
概念化された「私らしさ」より手前、言語化されるより以前の部分に、「言語化され、概念化され、分離される前」の本当の自分がいます。
リアルの世界での「アイデンティ」には、以下の2つのニュアンスがあります。
・私はほかの誰でもなく私である
・私は○○という集団の一員である
前者のような「私はほかの誰でもなく私である」という認識は間違いなくアイデンティに関わるものですが、同時に、後者のような帰属意識のこともアイデンティティと言います。
「日本人としてのアイデンティティ」と言ったりしますね。
そして、人は、どこかの集団に帰属して、そこではじめて「私はほかの誰でもなく私である」という形でのアイデンティティを有することができるとも言えます。
そのような「自分を自分たらしめている集団」との距離感を自由に調節できるようになるためのワークを以下で紹介しました。
記号の力:私たちが無意識に受け入れる「アイデンティティの象徴」
https://forum.pc5bai.com/tips/longshot/cf9e2ef4-3ee7-4203-a914-64b2281a91a9/
そして、前回、このワークへのフィードバックをひとつご紹介しました。
とても興味深いフィードバックです。
>早田 さん からのフィードバック:
>非常に哲学的なワークですね
>確かに世の中のすべての物事は名前が付けられると同時に分離(概念化)が始まります
>ということは分離する前(概念化される前)の世界があるわけですが、私たちはどうやってもこの分離する前の世界を「頭で」理解することはできません
>理解できたとするとそれは概念化された後であり本当の姿ではなくなっています
>なので私たちが真実を見るには言葉を覚える前の赤ちゃんのように思考を抜きにして見るしかないのですが、頭でやろうとしても失敗するので直接の経験に注意を向けるとその状態に近づくのかなと思ってます
>
>そもそも概念(思考とも言いますね)って何なんでしょう?
>仮に「パン」という思考でお腹を満たせるかと言われたら満たすことはできない
>思考の性質(色、形、臭い、味、触感)を考えてみても何もない、何もないのにあるように見える
>あるように見えるけどどこに位置しているのか答えることができないし、どこから現れてどこに消えていくのか答えることができない
>そしてその思考が本当に”自分の”思考なのか証明もできない、仮に自分がその思考を選んだとしていつ選んだかも答えることができない
>私たちは思考はあるという強力な前提条件に縛られていますが、もしかしたら思考なんてないのかもしれない
>一度も見たことも聞いたことも触ったこともないのになぜ思考はあるという前提になっているのでしょう?
>そう考えると思考をコントロールしようとしたり執着することがいかに私たちを消耗させるかわかる気がします
>そうなるとこれって「自分」という思考にも当てはまりますね・・・
>果たして「自分」って本当に存在するのだろうか・・・
>考えてもネズミの周り車と同じで答えはでませんが 笑
>
>概念に先立つ世界、そこに本当の自由がありそうな気がしています
以下のリンク先から、このフィードバックに対しての僕からは回答を読むことができます。
https://forum.pc5bai.com/tips/longshot/cf9e2ef4-3ee7-4203-a914-64b2281a91a9/#cid56
ですが、今回は、改めて、今感じることを書いてみます。
「全体は部分の総和ではない」という言葉があります。
起きた出来事、モノといったものには、名前を付けることができます。
名前をつけることで概念として扱えるようになります。一方、名前自体は、起きた出来事そのものではありません。
「ノートパソコン」という言葉は概念ですが、実際のノートパソコンそのものではありません。
「『ノートパソコン』を『開いた』」という具合に概念を組み合わせるとより真実に近くなるような感じはありますが、これもまた本当に起きた出来事そのものではありません。
この方も言われているとおり、世の中のすべての物事は、名前が付けられると同時に、概念化が始まります。
「アイデンティティ」というのも、所詮は概念です。
「こういうのが私なんだ」、「こういうやり方こそ、私らしいんだ」と頭で考えて行ってしまう行動というのはどうしてもあります。
こういう動機は、意識化されたものであるにせよ、無意識なものであるにせよ、概念化された「アイデンティティ」に紐づいています。
概念化された「私らしさ」より手前、言語化されるより以前の部分に、「言語化され、概念化され、分離される前」の本当の自分がいます。
- またワークをひとつ紹介します。
「言語化され、概念化され、分離される前」になるべく気づいてみましょう。
そのままの状態で、自分につけられた様々なアイデンティティをただ見てみてください。どのような感覚が湧くでしょうか。
手元にあるもの、視線を上げて目に止まったものに、無意識に「名前」をつけたくなる感覚に気づいてみてください。余裕があれば、その感覚が生じる前の状態にもう少しとどまりつつ、それらを観察してみてください。すると、どのような感覚が湧くでしょうか。
2024年11月20日 21:41
小川 慶一さん
2024年11月20日 21:28
AIユーザさん
2024年11月14日 17:04
小川 慶一さん
2024年11月13日 18:12
AIユーザさん
2024年11月13日 18:11
田中 宏明さん