「世界」とは、「ミシン目を入れられる前のパズル」
前回メルマガの続きです。
「虹の色」に学ぶ異文化間の認知の違い-言語とその文化が規定する「認知と行動様式の限界」を乗り越える
https://forum.pc5bai.com/tips/longshot/45d00916-9059-4cf1-8345-7054c86533b5/
虹は七色とされますが、実際には、7つの色で構成されているわけではありません。
赤外線から紫外線までの波長の光のグラデーション(勾配)があるだけです。
「虹は七色」とは、そこに光の波長の「グラデーションがある」ということを示した便宜的な表現です。
「虹は七色」と言ったとき、本来ないはずの境界を引いて分離させています。
本当は区切りなどないのに、7つの色の間に6つの境界線をつけているのは人の言語です。
(赤外線、紫外線との境界までを含めれば、8つでしょうか)
国や地域によっては「虹は六色」、あるいは「虹は四色」とするようなところもあり、本来同じものを見ているはずなのに境界線をどこで引いているのかは文化次第ということは前回のメルマガで書いたとおりです。
「光の勾配をわざわざ分離して表現している」とか「本来同じものを扱っているはずなのに、その分離の基準すら文化によってそれぞれ」といったところに意識を向けると、「人間の認知は不可解」とか「言語表現には限界がある」とかいった話になります。
とはいえ同時に、どの言語での表現であっても、「そこに光の勾配がある」ということに気づくきっかけにはなり得ます。
「どの切り出し方がより適切か」という比較の問題でありません。「その切り出す試みによって、何が世界から切り出されたのか」という気づきが大切です。
「虹は◯色」という表現が「そこに光の勾配がある」ということに気づくきっかけになったのであれば、その◯の値が7であろうと6であろうと4であるかは関心の対象ではなくなります。
前回メルマガで使った表現でもう一度書けば、「言語には、世界を切り出す」という機能があります。
空から「虹」だけを分離して切り出す、「虹」の中から「7色」を分離切り出すといった機能です。
その先には、統合があります。
「七色」という表現から「そこにあるのは7つの色ではなくグラデーションだ」、「虹」という表現から「そこにあるのは空間の一部で起きている光の回折現象だ」と気づくとき、人は、「分離して切り出す」言葉をきっかけとして、世界の統合を感じることができます。
ひとつの言葉から何かに気づくとき、人は、その切り出されたものと同時に、それが切り出される前、分離以前の統合された状態にも気づくことができます。
文化により、「世界の切り出し方」はそれぞれですが、どの「切り出し方」も、あくまで「切り出し方」にしかすぎません。
それは世界から何かを分離させるためのひとつの方便にしかすぎず、「どれのほうがどれより格段に優れている」というものでもありません。
自身が属する文化やそこで使われる言語により切り出された概念にとらわれることなく、その切り出しにより気づくことのできること、世界そのもの、いわば、分離前にあった本来の統合の状態に気づけることが大切です。
世界とは、ミシン目を入れられる前のジグソーパズルのようなものです。
人は、ミシン目を入れられて切り出されたパズルの一片からも、世界を感じ取ることができます。
「虹の色」に学ぶ異文化間の認知の違い-言語とその文化が規定する「認知と行動様式の限界」を乗り越える
https://forum.pc5bai.com/tips/longshot/45d00916-9059-4cf1-8345-7054c86533b5/
虹は七色とされますが、実際には、7つの色で構成されているわけではありません。
赤外線から紫外線までの波長の光のグラデーション(勾配)があるだけです。
「虹は七色」とは、そこに光の波長の「グラデーションがある」ということを示した便宜的な表現です。
「虹は七色」と言ったとき、本来ないはずの境界を引いて分離させています。
本当は区切りなどないのに、7つの色の間に6つの境界線をつけているのは人の言語です。
(赤外線、紫外線との境界までを含めれば、8つでしょうか)
国や地域によっては「虹は六色」、あるいは「虹は四色」とするようなところもあり、本来同じものを見ているはずなのに境界線をどこで引いているのかは文化次第ということは前回のメルマガで書いたとおりです。
「光の勾配をわざわざ分離して表現している」とか「本来同じものを扱っているはずなのに、その分離の基準すら文化によってそれぞれ」といったところに意識を向けると、「人間の認知は不可解」とか「言語表現には限界がある」とかいった話になります。
とはいえ同時に、どの言語での表現であっても、「そこに光の勾配がある」ということに気づくきっかけにはなり得ます。
「どの切り出し方がより適切か」という比較の問題でありません。「その切り出す試みによって、何が世界から切り出されたのか」という気づきが大切です。
「虹は◯色」という表現が「そこに光の勾配がある」ということに気づくきっかけになったのであれば、その◯の値が7であろうと6であろうと4であるかは関心の対象ではなくなります。
前回メルマガで使った表現でもう一度書けば、「言語には、世界を切り出す」という機能があります。
空から「虹」だけを分離して切り出す、「虹」の中から「7色」を分離切り出すといった機能です。
その先には、統合があります。
「七色」という表現から「そこにあるのは7つの色ではなくグラデーションだ」、「虹」という表現から「そこにあるのは空間の一部で起きている光の回折現象だ」と気づくとき、人は、「分離して切り出す」言葉をきっかけとして、世界の統合を感じることができます。
ひとつの言葉から何かに気づくとき、人は、その切り出されたものと同時に、それが切り出される前、分離以前の統合された状態にも気づくことができます。
文化により、「世界の切り出し方」はそれぞれですが、どの「切り出し方」も、あくまで「切り出し方」にしかすぎません。
それは世界から何かを分離させるためのひとつの方便にしかすぎず、「どれのほうがどれより格段に優れている」というものでもありません。
自身が属する文化やそこで使われる言語により切り出された概念にとらわれることなく、その切り出しにより気づくことのできること、世界そのもの、いわば、分離前にあった本来の統合の状態に気づけることが大切です。
世界とは、ミシン目を入れられる前のジグソーパズルのようなものです。
人は、ミシン目を入れられて切り出されたパズルの一片からも、世界を感じ取ることができます。
- 「虹」や「空」以外の言葉、たとえば「雲」、「風」といった言葉は、どこから何を切り出しているでしょうか。そして、それらが切り出される前の世界に意識を向けると、どんな感じがするでしょうか。
たとえば、「風」を感じるとき、私たちが感じているのは「風速」や「風向」といった言語化された何かではありません。
地球の回転や気圧差などの複合的な要因によって生じた何かを体感しています。
同様の例を感じてみてください。
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「気づく」力が高まれば、世界はより興味深いものになります。
あなた自身についても、よりその興味深さに気づくことができるようになります。
https://forum.pc5bai.com/lesson/course/46/
自身の所属する文化やそこで使われている言語からの固定概念から自由になり、より自由に気づけるようになるには、日本語以外の言語を学ぶことがとても有効です。
プログラミング言語の学習には、実務での即効性もありますが、そういうリベラルアーツ的な側面もあります。
https://forum.pc5bai.com/lesson/course/10/
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