「科学」への信仰:「私が真実とみなすもの」と、「あの人が真実とみなすもの」

「あれはエセ科学だ」、「あれは疑似科学だ」と言いたくなるような主張を見かけたとき、人はどうあるべきなのでしょうか。
より広く言えば、人と自分との間で物事への対処の方針やその背景思想が異なるとき、一般論としては、人はどう反応するべきなのでしょうか。

今日は、そんなことについて考察してみたいと思います。


「科学とは宗教の代替品だ」とも言われます。
「人は、信仰すること自体はやめていない。ただ、信仰の対象が神から科学に変わっただけだ」というものです。

コロナ禍のような時期には、「科学的な方針」、すなわち「信仰するに値する方針」が個々人によって異なることがはっきりしました。

ある人は、「コロナはただの風邪」と言います。またある人は、「コロナは重大な感染症だ」と言います。
そのどちらも、その人がふさわしいと思う「科学的な考え方」、つまり「信仰するに値すると信じるもの」をよりどころとしています。

これは、それぞれの持つ「科学観」が異なることから生じる差異です。
同じ「◯◯教◯◯派」という宗教を信仰している人でもそれぞれ宗教観が異なるように、同じ「科学」を信仰している人でも、それぞれ宗教観は異なるのです。

この差異は埋められるのでしょうか。
もしそれを埋めようとするならば、大きな抵抗に合うでしょう。それは、その人の持つ「科学」への信仰、すなわちその人の宗教観を危険に陥れる宗教論争だからです。

時代によって、地域によって、集団の性質によって、同じ「◯◯教」であったとしても、受け入れられる派閥は変わります。

自身と異なる宗教観を押しつけることは、相手の所属する集団の発展の経緯への侮辱となることすらあります。


「あれは疑似科学だ」と言いたくなるような主張を見かけたとき、人はどうあるべきなのでしょうか。

ここまでに考察してきたとおり、「それは個々人の宗教観にしかすぎない」として、いたずらに矯正の働きかけをするべきではないと思います。
その人の中にあるのは、「宗教」ではないにしても、「その人の信じる科学」という信仰だからです。

それはまた、あなた自身も誰かの宗教観、誰かの信じる「科学」によって影響される必要はないということでもあります。

あなたが信じる科学と異なる行動を強いられそうになったとしても、あなたはそれに従う必要はありません。
ただ、「あなたはそう信じるかもしれないが、私はそうは思わない」と、きっぱりと否定できればそれで良いでしょう。
  • ワークをひとつ提供します。

    あなたが「エセ科学だ」、あるいは「その方針はおかしいと思う」と言いたくなるような意見、その意見を述べている人を思い浮かべてみてください。

    そして、その相手に向けて、試しに「それはあなたの宗教です。私には関係ありません」と唱えてみましょう。
    どんな感覚がしますか。そして、その相手は、イメージの中でどんな反応をしていますか。

    このワークをやってみた感想を、ぜひ、シェアしてください。
    https://forum.pc5bai.com/tips/longshot/294795cb-5404-4051-a250-68f65fd4fee6/
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